突然気付いたこと...

Mental Disorder
01 /31 2013
 ここしばらく精力的にブログ更新しているのは軽躁病相ではなく、むしろうつ病相がより著しいからだと思ってます。

 何かを書いていると不安はなくなるので、ブログ更新しかなくなっちゃうわけなんですよね。

 最近は、双極性障害と遺伝的形質に関する資料や論文を精力的に読んでいます、というか、ともかく何でもいいからやってないと落ち着かないんです。

 で、ふと気付いたことなんですが...

 愛読している「ダイヤモンドオンライン」で、2008年10月16日から24回に渡って掲載されていた精神科医泉谷閑示氏の「8人に1人が苦しんでいる!「うつ」にまつわる24の誤解」は、いろんな意味でサジェッションを受けます。

 これを読んでから、突然、閃いたことなんですが、「病気のせいにしている」という殺し文句って、いわば、逃げ道を塞ぐようなものんじゃないかということです。

【第18回】に掲載されていた『「逃げる」のは悪いこと?―ウツの人にもよく向けられる精神論』で、病気のせいにして逃げるということは決して悪いことじゃない。むしろ「逃げる」ことを悪いことと決め付けてしまうことで、「逃げ」場を失った人が抑圧を受け、身も心も疲弊して〝うつ〟になるという流れを(たぶん)展開しており、非常に説得力のあるものとなっています。

 そして、この考えは「病気のせいにしている」ということに対するアンチテーゼを示す手がかりとなってるんじゃないかと思ったんです。

 「病気のせいにしている」ということがダメというのは、「病気のせいにしちゃいけない」ということです。つまり「病気のせい」にすることが悪いことという、「逃げる」ことのできない展開になるわけなんです。

 でも実際は、例えば筆者の軽躁病相における迷惑行為とかは、間違いなく「病気のせい」です。これは否定できない事実です。

 でも筆者は「だから許せ」と言っているわけではありません。事実を述べているのに、それを言い訳だとか、開きなおりだとか、『逃げ』道を塞ぐようなことを言うから、話がおかしくなるんです。さっきの『「逃げる」のは悪いこと?―ウツの人にもよく向けられる精神論』と同じです。

 まず「病気のせい」という事実を前提として考えれば、次にじゃあ「どのように責任をとるか」という本質的な話が展開していきます。むしろこの流れの方がいいんじゃないでしょうか、患者本人とその相手にとってもいろんな意味でプラスになります。

 感情論による否定的な意見は単なる水掛け論で何の進展ももたらしません。むしろマイナスになるだけです。黒返しになりますが、患者がいて、その相手がいて、生産的な話をするというのであれば、まず前提として「病気」ありきなんだろうなと気付いたんです。

 以前『14番目の項目「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」』で書いた『検察側は「病気のせいにして、反省していない」と非難』はどこか感情的なものと思わずにはいられないんです。もう少し掘り下げてみれば「病気のせいに」しなければ、被告は反省していると見なされたかというと、たぶんそれはありえません。むしろ、本質的には責任能力があったかどうかというところで、検察側としてはそう言わざろう得なくなってしまったんでしょうね。そう考えると少し怖い気もします。

 話が横道にそれましたが、いずれの場合であっても「病気のせい」という事実に立って、患者本人にどのような責任を取ってもらうかを冷静に判断することが、何においてもいいことなんじゃないかなと、ふと思いました。

                                                Fin
スポンサーサイト

『ブラックジャックによろしく』をよろしく

日常から
01 /30 2013
 『ブラックジャックによろしく』が連載開始となった時ですが、手塚治虫の『ブラックジャック』の著作権に抵触してるんじゃないかという話題が取り沙汰されたように思います。

 しかし、この騒ぎは虫プロダクション(だったと思います)から、著作権に抵触しないとの声明が出て、逆にマンガ『ブラックジャック』より幾つかの作品を抜粋した『ブラックジャックこそよろしく(だったように記憶しています)』が出版されたことで、騒ぎがおさまったように記憶してます。漫画界の巨匠故手塚治虫氏の懐の深さを印象付けましたね。

 さて、『ブラックジャックによろしく』なんですが、当時はとても読み続けられない...と読むのをやめてしまいました。

 それは、あまりに衝撃的だったからです。夜もうなされるほどの衝撃でした。山崎豊子氏の『白い巨塔』に代表される、世間から孤立した印象を持つ医局制度などの医学界は、やはり隔絶の感を否めません。

 しかし、だからと言って、医学が世間から隔絶された存在かと言うと、そうではないと思います。実際に、筆者の一族には何人もの医者がおり、医学会に比較的身近な存在です。

 なにより、身体的障害と精神的障害とを持つ筆者は、医学によって、それなりの生活を営めるからです。もし、世が世なら、筆者はまず身体的障害によって、それなり生活を送ることすら危うかったでしょう。もしかしたら、今、生を享受することすら困難だったかもしれません。

 さて、マンガ「ブラックジャックによろしく」の作者・佐藤秀峰氏は、同作の二次利用を昨年9月15日からフリー化することなり、電子ブックでも無料で読めるようになりました。

 そこで、衝撃を受けて夢でうなされることを承知の上で、久々に読んだのですが、そこでふと思ったのが佐藤秀峰氏が、なぜフリー化したのか、ということです。

 あくまでも私見です。フリー化することで、医学界というものを知ってもらうと同時に、誤解と偏見に満ちた患者への一方的な差別を少しでも払拭できれば...と思ったのかも...というか、そうであって欲しいと思いました。

 特に、第9巻より描かれている精神医療のことについては、まさに、その問題点を深くえぐりとるようなものとなっています。

 筆者は身体障害者のみならず、昨年9月から精神障害者の仲間入りをしました。正直なところ受け入れ難い、あまりにも残酷な事態でした。なぜ、自分だけこのような負荷を背負わされるのか、と今も時々苦しみます。

 ただ、改めて『ブラックジャックによろしく』を読んだ時、(まあ少し傲慢な言ですが)我が事と感じ入り、あまり拒否反応を示さずに読み通すことが出来ました。

 マンガはとてもお手軽な読み物です。普通の本を読むよりははるかに入りやすいでしょう。ですからマンガと侮らず、是非読んでほしいと思わずにはいられませんでした。

 筆者は精神障害といっても入院が必要なものではなく、仮に入院したとしても、間違っても閉鎖病棟に行くことはないでしょうが、精神科というものを知る意味では、第9巻から第13巻までは是非読んでほしい、そう思います。

 障害者は健常者から見れば、どうしても偏見や差別の対象とはなります。たぶん、それは決してなくなりません。なぜなら、障害者という、いわゆる弱者を見下すことでしか自分のアイデンティティを確立できない人が、少数ではありますが、必ず存在するからです。

 そういう形でしかアイデンティティを確立できない人と障害者は、相容れない存在ではありますが、光があれば影があるように、表裏一対のものとして、必ず存在します。筆者もそれは承知していますので、誤解と偏見による差別の根絶などと、日本○○党のようなことは言いません。

 しかし、あくまでも、そういう人がマイノリティであって欲しいと思うからこそ、この機会に是非『ブラックジャックによろしく』を読んでいただければと思います。
      
                                                  Fin

Star Warsと双極性障害 第3章

Star wars
01 /28 2013
A long time ago in a galaxy far,
far away…




Master Yode:Master Qui-Gon. More to say have you?

Qui-Gon Jinn:With your permission, my master. 
                  I have encountered a vergence in the Force.

Master Yode:A vergence, you say?

Mace Windu:Located around a person?

Qui-Gon Jinn:A boy. 
                  His cells have the highest concentration 
                  of midi-chlorians I have seen in a life-form. 
                  It is possible he was conceived by tha midi-chorians.

Mace Windu:You refer to the prophecy…of the one 
                  who will bring balance to the Force. 
                  You believe it’s this boy? 
                  I don’t presume to…

Master Yode:But you do. 
                  Revealed your opinion is.

Qui-Gon Jinn:I request the boy be tested, Master.

Master Yode:Oh? Trained as a Jedi you request for him, hmm?

Qui-Gon Jinn:Finding him was the will of the Force. 
                   I have no doubt of that.

Mace Windu:Bring him before us, then. 



(EpisodeⅠ 強いForceとの出会いの報告) 


 midi-choriansより創造されし者がForceのバランスをもたらすという伝説は、Jedi Orderに古くからある預言とされていました。

 Qui-Gon Jinnは、強力なForceを持つAnakinこそが伝説の者と思ったのです。が、Master Yodeはそれに疑問を持ちました。これは、決してQui-Gon Jinnに疑いを持った訳ではないと思います。

 Master Yodeが懸念したこと、それは強力なForceが必ずしもGood sideとは限らない、むしろDark sideの可能性の方が高いと、つねづね思っていたからでしょう。


さて、ちょっと前回述べたように、そもそもForceとは何でしょうか。

 ウィキペディアでは「JediやSithの超常的な能力の源」となっています。また、スターウォーズの鉄人では「形而学的、束縛的、普遍的な力」となっています。何らかの力ということは分かるのですが、あまりに抽象的すぎて、ちょっと分かりづらいと感じます。

 そして、何よりもmidi-choriansとForceとの関係がよく分かりません。一応、midi-choriansが多いとForceが強いという設定はあるのですが...

 Star Warsの原作本や資料に基づいた筆者の見解は、『Forceとは感情を通路してmidi-choriansから発現するもの』と考えています。

 そして、Dark sideのForceが、しばしばGood sideを凌駕するようになるのは、Dark sideのForceに通じる『怒り』『恐怖』という感情が、より原始的・根源的であるため、ということなのでしょう。

 EpisodeⅠの原作や様々な資料(スターウォーズの鉄人など)によると、新Sith Orderは、Jediの一部がGood sideよりも強力なForceをmidi-choriansより引き出すことができることを知りました。そして、初代Darth Ruinを含めた数人のJediがSithへと転身を図っています。

 midi-choriansより魂を錬成した賢者Darth Plagueisにとって、よりForceの強い魂をと求めるのであれば、魂の根源に『怒り』『恐怖』をより強く刷り込む方がいいはずです。そこにAnakinに双極性障害の遺伝的形質を持たせる一因となった、ということではないでしょうか。

 特に、双極性障害の躁病エピソードにおける〝感情爆発〟は大変都合がいいと思います。

 Darth Plagueisは意図的に付加ものなのか、それとも偶発的に負荷されたものなのか、それは現時点は判断できません。ただ、とても悲しいことに、よりForceの強い魂の錬成を追及された結果、Anakinは双極性障害の遺伝的形質を持つことが必然となったのはまちがいないでしょう。

 さて、ここで生じた双極性障害の遺伝的形質の付加がDarth Plagueisの意図したものなのかを検証が必要かもしれません。なぜなら、そこにAnakinが、双極性障害を治療する機会があったかどうかを検証できるからです。

 これは第4章で検証していくことにしましょう。

 それでは

『May the force be with us of Bipolar Disorder!』
  (双極性障害の我々が、フォースとともにあらんことを!)


龍馬と瑞山

日常から
01 /27 2013
 以前からずっと書きたかったことです。

 龍馬は言わずと知れた〝坂本龍馬〟です。知らない人はいないと思います。

 瑞山は〝武市瑞山〟のことです。〝武市半平太〟という名前の方が有名かもしれませんね。

 2010年の大河ドラマ「龍馬伝」で武市瑞山のことを知った方も多いと思います。

 略歴などは書きません。どうしても気になる方はググるか、下のリンクを利用してください。

   〝坂本龍馬〟

   〝武市瑞山〟


 筆者は〝坂本龍馬〟よりも〝武市瑞山〟の方が何となく好感が持てます。それは〝坂本龍馬〟よりも〝武市瑞山〟の方に、何となく近しいものを感じるからです。

 最も、筆者は、歴史上の偉人に近しいなどと言えるほどの器量を持つ人ではではないですね、むしろ憧れと言った方がいいですね。

 私見ですが、〝坂本龍馬〟を一言で表すなら『自由奔放』、一方〝武市瑞山〟は『清廉実直』というところでしょうか。ただ、両者に共通するのは決して夢想家ではなく、れっきとした『リアリスト』であることです。

 黒船来航とともに、両者は時代の変化をはっきりと肌で感じていたことでしょう。

 〝坂本龍馬〟も〝武市瑞山〟もその変化に合わせ、それぞれの信念に基づいて行動をとりました。

 ただ決定的に違っていたのは、〝坂本龍馬〟が今までの常識にとらわれない自由な発想に基づいて行動したのに対し、〝武市瑞山〟は自身の立っている場を基に(それなりに)常識ある行動をとったことです。

 このような行動に違いに〝武市瑞山〟の近視眼的な愚かな考え方だと否定する向きもあると思います。なぜ、常識にとらわれず、もっと自由な発想ができなかったのか...と。

(こういう言葉を上司から投げ付けられる方もいるのではないでしょうか。)

 〝坂本龍馬〟を題材とする、いわゆる『坂本龍馬に学ぶ…』といったビジネス書や自己啓発本も出ていました。今もそこそこあると思います。

 アベノミクスが、今の閉塞感漂う時代をどこまで打破できるか、筆者は分かりませんが、確かに今の時代は〝坂本龍馬〟に学ぶ点は多いと思います。

 が、それを学ぶことはできても、実行することができうるものなのか。目標とする人物としていいのだろうか。筆者は疑問を感じるのです。

 〝坂本龍馬〟と〝武市瑞山〟を、今の時代の、そうサラリーマンに例えてみましょう。

 自由奔放な〝坂本龍馬〟は常識にとらわれない行動をとります。果たしてサラリーマンとしてやっていけるかというと、かなり無理があると思います。多分、会社は〝坂本龍馬〟のような理解不能な人間を置いて置くほどの余裕はないと思います。真っ先にリストラされるでしょう。

 〝坂本龍馬〟がサラリーマンであるためには、彼の上司や企業経営者が、〝坂本龍馬〟を十分に理解できるほど、常識にとらわれない発想力を持つ、非常に大きく深い、さながら松下幸之助の様な器量を求められるからです。

 今の時代の企業はむしろ堅実さを求めています。それは〝武市瑞山〟のような人物です。仁義を重んじる人柄や指導者としての資質を十二分に持つ彼は、その時代、様々な人から高い評価を受けていました。ですから、今の時代にあっても、優れたビジネススキルを持つ人として、様々な企業からオファーを受けることでしょう。

 では、それでもなお〝坂本龍馬〟がビジネス書や自己啓発本の題材に挙げられるのは、彼の持つブレークスルーという、ある意味特別な(“特殊な”と言った方がいいかもしれませんね)能力があるからだと思います。啓発本は説きます。その特別な、特殊な才を自己に見出せと。

 ブレークスルーとは「爆発的進歩」あるいは「爆発的革新」といえばいいでしょうか。常識にとらわれていては決してなしえないものです。しかし、ブレークスルーは誰もが学べるものではなく、また、学べばできるものでもない、個々の才に委ねられる部分が大きいと、筆者は思うのです。

 だから、ブレークスルーをなしえた人を世は『天才』と呼でしょう。

 ですが、そのような、いつか何かすごいことを成し遂げるだろうという漠然とした期待のみで、企業は自由奔放な人をいつまでも抱えているでしょうか。むしろ〝武市瑞山〟のような『秀才』こそ企業に必要な人材とみなすと思います。

 幕末の激動の時代、時代は『秀才』ではなく『天才』に、歴史の表舞台へと躍り出る機会を与えました。〝坂本龍馬〟は幕末の英雄として歴史にその名を刻みました。ですが、時代の『秀才』児、〝武市瑞山〟も決して、〝坂本龍馬〟に劣らぬ輝きを持っていたと思います。


 閉塞感がいまだ強い、今の時代、〝坂本龍馬〟のような発想力と〝武市瑞山〟のような実直さ、一見すると相反するようにも見えるものが、ともに求められていると思います。

 多分、それは〝坂本龍馬〟のような強い輝きを持つ時代の寵児を支えるために、たくさんの〝武市瑞山〟のような実直な人達が求められるという事であり、〝武市瑞山〟という時代を支える賢者のような輝きに、筆者は好感を持つのだと思います。

 筆者は、天より授かる自身の〝才〟によらず、日々の積み重ねによる実直さや勤勉さ、そう〝武市瑞山〟のような生きざまに多くを学びたい、そう思うわけです。

                                             Fin

死ぬ勇気があれば...

Mental Disorder
01 /22 2013
2013年1月22日(火)付 朝日新聞の朝刊

天声人語より抜粋

 「家族は悲しみを抱きながらも仕事をし、食事を摂(と)り、時に泣き、笑い、生きてゆかねばなりません」。57歳の夫に自死で先立たれた女性の手記である。「でも日々の何気(なにげ)ない生活の中で、突然襲ってくる悲しみがあります。皿洗いをしている時、洗濯物を取り込んでいる時……」▼遺(のこ)される者に済まないと思うなら、踏みとどまる望みもある。死ぬ覚悟を転じればいくらでも出直せるはずだ――これらは、自殺を知らないゆえの小理屈だという。未遂者によれば、何やら黒いものに追われて、それどころではないらしい▼去年の自殺者が15年ぶりに3万人を割り、2万7766人に減ったそうだ。とはいえ日に76人。61年ぶりに4500人を切った交通死の、まだ6倍を超す▼希望は東京、神奈川、大阪などの都市圏で、予防の試みが効き始めたことだ。健康や生計に悩む人と専門機関を、役所の窓口でつなぐゲートキーパーが好例だろう。社会全体で「気づき」「頼れる」環境づくりが続く▼おととい101歳で亡くなった詩人、柴田トヨさんの「くじけないで」に、次の一節がある。〈陽射(ひざ)しやそよ風は/えこひいきしない/夢は/平等に見られるのよ〉。ずっと若い人が、同じ感性を持てぬ理由はない▼人間には、自らいたわればトヨさんのように、100年を超えて輝く力が備わっている。くじけずに全うする天寿は、愛し、愛された者への小さな花束ともなろう。心まで冷える冬は、誰にも巡り来る日だまりを飛び石にして。

全くの正論です。異議を唱えるすきもありません。

筆者が気になるのは「去年の自殺者が15年ぶりに3万人を割り、2万7766人に減ったそうだ。とはいえ日に76人。61年ぶりに4500人を切った交通死の、まだ6倍を超す」

所詮は机上の数字です。自殺者一人一人の人生を思い描くことはできません。

筆者は、以前、友達を自殺で失いました。

強い喪失感とともに、なぜ彼の苦しみを気付けなかったのか、苦悩しました。

しかし、今振り返ると、親友の「自殺」という出来事には苦悩はしても、彼の死に至るまでの苦しみを理解していないかったのではないかと

今は苦悩します。時々。

自殺を統計的な数値で扱っている限り、やはり、自殺を減らすための根本的な解決はできないと思います。

「未遂者によれば、何やら黒いものに追われて、それどころではないらしい」と。

全くその通りだと思います。

では、その「黒いもの」とはなんでしょうか。

なぜ「追われて」いるのでしょうか。

そこに、自殺を減らすための何らかのヒントが隠されている、と筆者は思うのです。

そこには、未遂者の人生の中で「黒いもの」が生じ、

何らかの原因で「追われて」いるのではないかと思うのです。

つまり、自殺をなぜ企図するのか、という部分を考えるには、結局

ものすごく手間はかかりますが、

その人の人生を思いめぐらせる必要があるのではないでしょうか。

一人一人の生き様に思いをはせることなく、十把一絡げに自殺を止めようとすることは

やっぱり無理があるんじゃないかと思います。

こういう試みは大変な労力と人手、そして根気強さが必要となります。

そして、こういう気付きは身近な人

本来は家族の気付きが何よりも必要だと思います。

娘「父さん、私の部屋に入っちゃダメ! ヘアブラシ使っちゃダメ! 
  それから・・・ずっと元気でいなくちゃダメ!」
父「え?」
娘「この頃ちゃんと眠れてないでしょ最近」
娘「泣いちゃダメ」


他人が示す戒めや説得はよりも、

今失われつつある、家族と言う絆

自殺を考える人の人生に最も思いを巡らせることができるのは

家族こそが最も理解者足り得るという事なんですよね。

当然と言えば当然なのですが

そういう、本当は当たり前であったことを

改めて家族の意味を考えることを

ひょっとしたら家族の絆が希薄になっているのではないか

足元にあるそんな日常のごくある風景の中に、

自殺の予防と言う方法がある。

筆者はそう思うのです。

まあ、これも正論と言えば正論ですがね。


                                                Fin

デススター建造計画、マル秘情報を入手!

Star wars
01 /19 2013
 熱烈なStar Warsファンならば御存知とは思いますが。

「デス・スター建造請願に対し、ホワイトハウスが回答」
「英語版」はこちら

 このニュース、いかにもアメリカらしいと思います。

 雇用創出はアメリカのみならず、日本でも極めて重要な課題ですが、大変な予算をかけるよりは、むしろ、マンパワーの強化の方が重要ではないかと思います。

 そこで、筆者は靖国神社でお会いした安部首相に、国立ジェダイ大学(Jedi academy)の創設を要望しようと思います。

 技術大国日本の名のもとに再生を目指すということであれば、やはり技術のブルークスルーを担う人材の育成は不可欠でしょう。清廉潔白なJediの社会参加によって、今問題となっている企業のコンプライアンスの低下を食い止めることは大いに期待できると思います。

 ただ、1つ心配なのは、私利私欲に走るDark Jediの出現や、Dark sideの転落したSithを社長とするブラック企業が出てきた場合、どのように規制し、取り締まっていくか、ということでしょうか。

 アメリカのデススター建設のような公共投資による財政出動も、1つの手段ではありますが、見込まれるのは即効性のみであり、景気の下支えをすることはできないと思います。

 デス・スター建設に否定的回答をしたホワイトハウスも「もしもあなたが科学、技術、工学、数学関連の分野でキャリアを追求しているのなら、フォースは私達とともにあるでしょう。デス・スターの星を破壊する力も、フォースの前には取るに足らないということを思い出してください」 と述べており、Forceとともにある、Jediの人材育成の方が重要と暗に述べています。

 日本政府が、この要請に対し迅速に対応し、年内にも国立のJedi academy創設に向けた補正予算を組み、世界に先駆けたJediの育成機関の創設することを、筆者はただただ切望するばかりです。

 お後がよろしいようで...

阪神・淡路大震災から18年を経て

天変地異
01 /17 2013
 近代都市が地震という災害にどれだけ脆いものであったかを知らしめられてから、早18年が経とうとしています。

 筆者は当時、阪神地方にこそ住んでいませんでしたが、ほど近いところにいました。そして友人や知人には、阪神地方出身者や在住者がたくさんいました。

 突然の知人や友人の訃報、家族の訃報に悲嘆にくれる友人。非日常的な日々に、ただ、呆然と、その未曾有の大災害を耳にするだけでした。

 周知のとおり、当時はボランティアの受け入れ態勢が整っていなかったため、熱意こそあってもただ手をこまねいているだけでしたが、しばらくすると、災害復旧の調査の人手が足りないのでアルバイトをしないかと言われ、そのアルバイトに従事したことを今でも鮮明に覚えています。

 決して、他人事ではなかったあの未曾有の震災、特別な思いを込めて、ただ、今日だけは、私の友人や知人も含め、犠牲となられた方々へ、深い哀悼の意をささげたい、と思います。

                                                Fin

闘病生活??? という世迷い事

Mental Disorder
01 /16 2013
 休職・療養に入ってから、すでに半年以上。最近、周囲の人が鬱陶しく思える時があるんです。なぜなら、明らかに一進一退な病状なのに、周囲の人には回復してきたように演技しなければいけない自分を発見するからです。

 そして思ったが、例えば、よく似た『うつ病』にしても双極性障害にしても、休職・療養期間って、闘病生活なのかってことです。

 闘病と思えば思うほど、回復してきてるよって周りに思わせなければいけないって気持ちになります。そうすると気持ち的には無理をして、翌朝、ものすごく嫌な気持ちになる、いわば無限ループに陥ってしまいますから。

 だから、そもそも闘病って何って思い始めたんです。

 私自身、何も双極性障害だけじゃなく、交通事故により足にひどいケガを負い、辛いリハビリを経験してます。その経験から言わせてもらうと、リハビリってドラマとかで見るほど、何か美談になりそうなことじゃないです。半端なくきついんです。もしかしたら一生治らないんじゃないかって、ものすごく絶望的な気持ちになって、もうリハビリなんていいやって思ったのは一度や二度じゃないですから。

 こんな時、もし「そんな気持ちじゃだめだ、がんばれ」てな具合に、ドラマチックに言われた日にゃぁ、多分、その人のことを、松葉づえでしこたまぶん殴っていますね。無言で…。

 そんな経験もあるもんですから思うんです。闘病って何よって。

 そもそも誰と闘うんですかね。ケガと? 病気と? 姿も形もないものを相手に闘えますか? 「自分との闘い」ってヒロイックに表現する人もいるでしょう。でも、根本的にそれが間違っていると思うんです。

 自己啓発じゃあるまいし、それなら、ケガや病気で長いこと治療をしてきた人は自分と闘い、自己実現してますかね?

 ひところ流行った『カ○マー』とかになってますかね。悟りでも開いてますかね、解脱してますかね。そんなことはないでしょう。もしそうなら、病院には仙人みたいな人や高僧みたいな人がたくさんいることになります。探せばあるのかもしれませんが、私はそんな病院や入院病棟はみたことはありません。

 闘うことに何の意味もないんです。そう思うんです。苦しい治療の果てにあるのは、治った自分がいるだけで、まあ、せいぜい、苦労したなと思うくらいです。せいぜい、あの時、看護士にでも手を付けとけばよかったという後悔だけです(笑)

 私見ですが、闘いとは、あくまで競争の延長線上にあるものです。競争だって相手がいなかったら競争にもなりません。自分との闘いにしたって、そもそも闘う相手が自分ですから、文字通り、独り相撲です(笑)

 もうここまで来ると、見えてきますよね。闘病なんて言葉はヒロイックな人が作った自己満足の産物に過ぎないってこと、むしろそんなことに踊らされること自体に何の意味もないんです。

 別に闘わなくていいんですよ。ケガのリハビリにしたって、そりゃあ、苦しいですけど、時間が経てば結局なんとでもなってしまう。実際、私は何とかなりましたから。

 そういう開きなおりこそが案外大切なんじゃないかなって、ふと思いました。

                                             Fin

14番目の項目「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」

Mental Disorder
01 /10 2013
 まずは、1月10日に結審したニュースを読んで頂ければと思います。

「判決直前また万引き、被告に実刑 やり直し裁判員裁判」

 強盗致傷事件の判決直前に、再び万引き事件を起こした被告の裁判員裁判で東京地裁は10日、懲役3年6か月の実刑判決を言い渡した。
大善文男裁判長は「法廷で反省のことばを話したはずなのにまた事件を起こした。弁護士は『病気が原因だ』と主張するが、再犯の恐れは否定できない。
服役して罪の重さを自覚した後、治療を受けるべきだ」と述べた。

 東京都武蔵野市の卸売業・安村信男被告(49)は昨年2月にスーパーで万引きした後に車で逃げようとし、保安員らにけがをさせたとして起訴された。

昨年11月7日の裁判で安村被告は「二度と万引きをしない」と誓って結審。ところが、同日午後、保釈中の安村 被告は都内のスーパーで弁当などを盗んだとして逮捕された。

 このため、裁判員は4日間で任期を終えるはずだったが、約2か月を経て改めて審理する異例の事態に。東京地裁では初めて裁判員裁判の審理がやり直しとなっていた。

 2カ月ぶりに再開された審理も、前と同じ裁判員が担当。安村被告は「私の再犯のため、裁判員の方の貴重な時間を割いていただき、申し訳ありません」などと謝罪した。

 被告人質問では「衝動的に物を盗んでしまう病気なので専門施設で治療させて欲しい」などと説明。

 弁護側は「被告は盗み癖のある病気だ。治療をしなければ、再犯は防げない」と保護観察付きの執行猶予判決を求めた。

 一方、検察側は「病気のせいにして、反省していない」と非難。昨年11月に懲役5年を求刑していたが、改めて懲役6年を求刑していた。

(上記は、1月10日の朝日新聞朝刊より抜粋し、一部加筆したものです。)



 ちょうど、その前日に万引きなどの犯罪が止められない「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」についてのコラムがあったので、この裁判を意識したものだと思います。

 一般的な「市民」の感覚として『検察側は「病気のせいにして、反省していない」』とするのは、確かにあると思います。否定はしません。否定できないと思います。被告は自らの道義的責任を鑑み、大いに反省すべきだと思います。

 ただ、もう1つ重要なのは「他のどこにも分類されない衝動制御の障害(DSM-Ⅳの14番目の分類)」という精神疾患を原因として、被告が罪を犯してしまったという事実もまた、存在するからです。

 筆者は、検察側の主張する「病気のせいにして、反省していない」という言葉には『身につまされる』思いでした。筆者も現在、双極性障害の軽躁病相における行動を「病気のせいにして、反省していない。いつ、また迷惑行為をするか、分かったもんじゃない!」と一部の方から言われていますので。道義的責任はあるので、筆者はしっかりと反省し、常にそのことを考え、どのように道義的責任を負うべきか(誇張した言い方ではありますが)、日々忘れずにいます。

 以前も発達障害の弟が姉を殺す事件で「家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される。許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」という判決がありました。当時は、筆者はこの判決に強い怒りと裁判員に対する憎しみの感情を持っていましたが、今は違います。確かにそうなんだと思っています。

 その判決に対する怒りと憎しみはありませんが、同じく精神疾患を患う市民として、その人に対し、その人の更生にどう関わるか、例えば、筆者がおよぶ範囲で、あまりにも小さい範囲ですが、精神疾患に関する蒙を啓くとか、そんな小さな行動が、微力ではありますが、被告の更生に貢献する義務を、ほんのすこしですが果たせるかもしれない、と思い行動しようと努力しています。

 なぜ、そういう行動をとろうとしているのか、ですが、それは、先ほどから述べている『市民』の権利と義務というものを筆者なりに考えているからです。

 少なくとも、筆者は『「市民」とは都市あるいは国家において、都市あるいは国家に自分の存在を主張する権利があると同時に、都市あるいは国家の構成に責任を持つ義務がある者を指す』であると学びました。

 例えば、選挙で投票する義務がありながら投票にいかず、政治への不満ばかりを述べる、とか、税金を払わずに福祉の拡充を主張する、こういう権利ばかりを主張する人は『市民』とは呼びません。『私民』と言います。

 すなわち、今回の裁判に対し、『市民』の感覚から判決を下す(すなわち法に乗っ取って権利を主張する)のであれば、被告が更生するために『市民』としての義務を果たす必要があるということです。

 それほど『市民』とは重いものであると筆者は思っています。

 繰り返しますが『市民』感覚として、今回の判決を是とするのはかまいません。否定もしません。

 ただ、どのような形で被告の更生に対する責任を負い、そして、社会復帰ができるようにしていくのか。

 この裁判の判決を通じて、『市民』ということの意味を、少しでも考えていただければ、筆者としては大変嬉しいと思います。

                                            Fin

アイデンティティ・ウォーズは再び始まった

日常から
01 /08 2013
まあ、私見ですが

グローバルスタンダードとか、ボーダレスとか、そんな言葉が叫ばれて、ずいぶん久しいですね。

ふと考えると、ずいぶんと今の生活の中にグローバルスタンダードなんぞがが入り込んできています。

一番分かり易いのが携帯電話です。日本国内でのみ爆発的進化を遂げた携帯電話は、その後「iPhone」や「smartphone」に駆逐され、ガラパゴス携帯などと不名誉な地位にまで落ち込んでしまったのがいい例ですね。

しかし、この状況については、すでに10年近く前に予測されたものでした。そして、日本国内で産声を上げたのが、携帯端末をベースとした『PDA』と言う名の情報端末。すでに一部の技術者は、携帯電話がこのようになることを予測していたのです。

残念ながら、『PDA』という情報端末は、あまりに早すぎる誕生ゆえ、長く忌子扱いされ、日の当たる場所に躍り出ることなくiPhone・smartphoneへと吸収されてしまいました。

何が言いたいかと言うと、ボーン・イン・ジャパングローバルスタンダードという名の戦争において敗れ、日本人に驚くほどに備わっているであろうブレークスルーという能力を発揮するもできず、メイド・イン・ジャパンという地位を再び甘んじることになってしまったということです。

私は、グローバルスタンダードとかボーダレスの本質とは「広い視野を持ちなさい」というのではなく「この世界においてアイデンティティ・ウォーズを勝ち抜け」という意味なんじゃないかと思うんです。敗者の屍の上に立ってね。

だから、今、あらゆる意味で引き籠りやメンヘルの問題が増えている現状の一因に、実は日本が押し付けられたグローバルスタンダードとかボーダレスという名の戦争の、すなわちアイデンティティ・ウォーズに意図せずして巻き込まれたことによる…、と思ってしまうことがあるんです。これは愚痴ですが。

グローバルスタンダードの先駆けとなったアメリカ合衆国は、おそらくはキリスト教という強力な基盤を持ち、国家としての強力なアイデンティティが存在しています。では、アメリカはキリスト教の宗教国家??いえいえ違います。しかし、裁判等で宣誓するとき、何に手をおいて“I tell(speak)the truth.”と誓いますか。

非難するつもりは全くありません。むしろ羨ましいくらいです。そこまでキリスト教という宗教を柱に強烈なまでのアイデンティティを確立していることに。


本年、アベノミクスが胎動し始めたとニュースでやっていますね。日本は再び復活すると述べてますね。それはそれでいいことです。何の異議もありません。是非推し進めて欲しいと思います。

ですが、それは、同時にアイデンティティウォーズという名の世界大戦が再び始まるということを意味していると思うんです。

『目覚めの時は来た。今、アベノミクスという言葉を合図に、戦争の火蓋は切って落とされた。逃げ場所などない。全ての場所が今、再び戦場となる。』

宗教という柱もなく、失われた20年により活力を失い、拠り所をなくした日本において、個々人が強烈なまでのアイデンティティを確立していけるのか、私はあえて問いかけたいと思うのです。


東日本大震災の折、今上天皇は、陛下は被災地に来た折、津波で亡くなった人たちに対し深く哀悼の意を示し、その場所で深々と頭を下げました。そして、もう一度、被災し命を落とされた方に、もう一度哀悼の意をささげたいと願い、再びその場所で、深々と頭を下げた姿がありました。

日本人の心に根差す、宗教とはまた違う、もっと本質的なアイデンティティとは

この上なく優しいまでの、今上天皇のお姿に代表されるところにあるんではないか…

と、ふと私は思うのです。

                                                Fin

“ウツ”の責任論について Part2

Mental Disorder
01 /05 2013
本年の最初の手記です。

筆者は休職・療養になってからというもの、ずっと『“ウツ”の責任論について』を考えていました。

“ウツ”の責任論について語る場合、まず、問題となるのが自己責任の範囲です。

この類の話はいつも難しいと感じます。なぜなら、『自己責任と追及する人』と『自己責任を否定する人』で、くっきりと見えてくるのが、“ウツ”をどれだけ知っているか、理解しているかという話に帰結するからです。

そして、『無知は罪』か否か、という哲学めいた話にもつながっていきます。

ロジックの積み立てが好きな人は、長々とその議論に付き合うことは出来るでしょう。しかし、こと日本人に限って言えば、このような人はマイニリティであり、普通は感情論です。

ないものねだりをしても仕方がないことですが、それに苦しめられる人にとっては、大変な問題です。

では、もっと原点に戻ってみましょう。つまり『自己責任』とは何かということです。

定義は〝自分の行動には自分に責任が存在すること〟となっています。

これを“ウツ”に当てはめた場合、自分の行動が“ウツ”を引き起こしたのであり、“ウツ”には自分の責任が存在するということになります。残念ながら、やはりどれだけ“ウツ”を理解しているかという問題に戻ってしまいました。

もう少し視点を変えてみましょう。昨年最後のブログに掲載した「大海原を進む船」の話にある「多様性」についてです。

「多様性」と言う言葉は、よく生物、生命の進化に使われます。生命はなぜ進化するのか?という問いに「多様性」という答えが提示されるからです。


地球の歴史46億年の中で、最初に生命が誕生したのは(まだはっきりとはしていませんが)最も古い説の中に、42億年頃という話があります。そこから、生命はゆっくりと着実に進化していきました(このあたりの説にもさまざまな意見がありますが)。そして、カンブリア爆発と呼ばれる遺伝子レベルの爆発的進化が起き、その後、綿々と生命の道は途絶えることなく、現在まで続きます。

しかし、生命は少なくとも5回、絶滅・消滅の危機に襲われます。有名なものとしては約6650万年前の恐竜の大絶滅があります。また、最大の危機は約2億51000万年前に起きたイベントです。この時の大絶滅の方がはるかに深刻でした。種の9割が地球上から姿を消してしまい、まさに生命存続の道の危機だったと言えます。



いずれにせよ、それでも、生命の道は綿々と続いたわけですが、その理由は生命の「多様性」に答えがあったわけです。様々な環境に生きる生命の多様性は、大絶滅という危機において、それまでは主役となりえなかった生命が、激変した環境に適応することが出来、生命の道をつなげたということです。

もし、生命に多様性がなければ、画一的な生命だけであったなら、生命の道は途絶えていたことでしょう。しかし、多様性を持つが故、生命は道をつなげることができたのです。

このような話は、人間の社会の多様性にも全く同じことが言えます。

まあ、この後の話は、前回の「大海原を進む船」と同じ内容になりますので、省略します。

つまり、“ウツ”等の病気も多様性の一種であり、社会環境の中の様々な舞台に反映された多様性が存在するということを意味しているのではないか、という考え方ができると思えるのです。

もちろん、“ウツ”になれば、社会的な生産性は落ちます。ですが、それも環境に社会環境に対する反応であり、そこには、社会環境に対する何らかのメッセージがあるのではないかということです。

そして、そのメッセージを受け取れるかどうかという個々人の感度の差が、結局のところ自己責任論の有無を作り出すのではないかと思うのです。

生命の進化も一緒です。今まで主役をなしていた生命が徐々に衰えていく有様、そして、主役が変わっていく有様は、地球という舞台における環境の変化(時に激変)を意味するものであり、声なき声とも呼べるでしょう。

純学術的な観点からすると、地球史あるいは化石の研究には、地球という舞台における環境の変化の研究は必要不可欠なものであり、は決して切り離して研究することはできません。もし、これを考慮しなければ、ただの化石ハンターというアマチュアとしかみなされません。議論の棒にも端にもかかりません。

それと同じです。社会という舞台における環境の変化(時に激変)に対する声なき声なのではないでしょうか。そのようなメッセージを発する者に少なくとも自己責任論という話は、アマチュアレベルの話であり、いかにもナンセンスではないかということです。

統計と言う数値は冷酷です。社会環境の変化に呼応するかのようにうつ病患者は増えました。ですからそこに隠されたメッセージを受け取らなければ、社会環境が今、どのように変化しているのか、決して理解はできないと思います。

逆説的な言い方ではありますが、自己責任論は、社会環境の変化に気付きたくないという思いと“ウツ”という病気からに目をそらしたいという願望が入り混じった、一種の畏れではないかと思うのです。

かつて、ハンセン病という病に対して、そして、今は放射能というものに対して、畏れを抱き、そして直視することを避けました。同じなのではないかなと思うのです。

以上のことから筆者は『“ウツ”の自己責任論とは個々人が“ウツ”に畏れを抱くために生じるもの』と結論付けたいと思います。

ずいぶんと長くなってしまいましたが、まあ、年明け早々、ぶっ飛ばすのもここまでとしようと思います。

次回は(できれば)Star Warsの第3章、もしくは〝Darth Ruin〟襲名秘話 後編でも掲載できればと思ってます。

それでは
『May the force be with us of Bipolar Disorder!』
  (双極性障害の我々が、フォースとともにあらんことを!)

クロサワウヅキ

性別:男
年齢:アラフォー

20代前半でForceに目覚める。
その後、SithのDark Lord〝Darth Ruin(Ⅱ)〟を襲名
というStar Warsのコアなファン

なお、メンヘルへの誹謗・中傷は許しません。